落語の原理主義
先日読んだ、古今亭圓菊師匠の著書「笑うが勝ち」の中に、とても素敵なエピソードがあります。
圓菊師匠が志ん生師匠に稽古をつけてもらっていると、そこに先代の馬生師匠が顔を見せた。圓菊師匠は二人の師匠を前に噺をすることになり、非常に緊張します。
すると突然馬生師匠が「そこはちがうよ」という。圓菊師匠は志ん生師匠に教わった通りにやっていたのですが、くすぐりの部分が違うと指摘するのです。それを聞いた志ん生師匠がボソッと言う。
「でも、おまえ、いいんだよ。まちがえたって警察はうるさくないんだからさ」
これはとても印象的な話です。落語に限らないと思いますが、ある種のマニアになると原理主義的な方向に行く場合があります。例えば、中トリという言葉があります。中入り(休憩)の前の出番のことで、通常の出番よりも長めの時間であることも多いので、トリ(一番最後の出番)に対して中トリというのでしょう。しかし、元来は中トリという言葉は間違いであるという意見もあります。トリというのはあくまでも最後の出番に使う言葉で、中トリではなく、中入りというべきだ、という意見です。これは落語を聴くにあたってはどちらでも良いことなのですが、こういう意見を本で読んだりすると「中トリという言葉は間違いだ」と頑なになったりするんですね。正直に告白しますと、僕にもそういう傾向があります。そういうことを考えると、先の志ん生師匠の言葉、
「でも、おまえ、いいんだよ。まちがえたって警察はうるさくないんだからさ」
これは非常に含蓄のある言葉ですね。
確か先代馬生師匠にも「何だって良いんだよ、でもどうでも良いわけじゃない」という言葉があったと記憶しています。
今日は馬石師匠の「芝浜」を聴いて、そんなことをつらつらと思いました。
この「芝浜」に関しては次回書きます。
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